2022/01/24

 この前、おばあちゃんの一周忌がありました。おばあちゃんが亡くなって、「もう一年が過ぎたのか」という気持ちがあります。

この一年、日常の中で、おばあちゃんのことを思うどころか、忘れていることがほとんどでした。しかし、おばあちゃんが座っていた場所、使っていたものを見たり、行事があると、「そういえば去年はおばあちゃんいたなー」と、ふと思い出すときがありました。私たちは嫌なことから目を背ける。ふと思い出した時におばちゃんの姿、形は見えないが音、声となって、「おまえも死ぬぞ」と教えてくれている気がしました。

 一周忌を迎えたとき、おばちゃんが亡くなった日を思い出していました。おじいちゃんが泣きながら、「世話になった。ありがとう」といってました。さらに、私たち兄弟、はっきり言って、おばあちゃんのことは好きではありませんでした。でも、おばあちゃんが亡くなったとき、ふと出た言葉が「ありがとう」でした。どんなに嫌っても、世話をかけられていても、やっぱり最後には、懺悔と感謝なのだなと、改めて感じました。

 おばあちゃんは亡くなり、姿、形はありませんが、私たち大窪家の食卓では、いつもおばあちゃんが話題となって、家族の会話の中心として存在し続けていると常々感じております。

 2021/10/18

 よく、月参りで御門徒さんに「どこも出てないか」「ワクチンは打ったか」と聞かれる。やはり、誰だってコロナにかかりたくもないですし、心配なのでしょう。

 私は先日、ワクチン二回目を打ってきました。それを御門徒さんに話すと、「ちょっとは安心やね」「少しは安心や」といってくれます。しかし、それは本当の「安心」なのか。今では、三回目の話もあり、打ってもかかる場合もある。いずれ効果が切れてしまう。だから、皆さん安心の前に「ちょっと」や「少し」をつけるのではないか。それは「安心」ではなく、「安堵」ではないかと私は思う。「心」とはとても難しものであり、なにか水のようなものではないか。丸いものに入れれば丸くなり、四角いものに入れればその形になる。傾ければ傾くし、熱を入れれば熱くなる。本当に変わりやすく、周りの環境に変化しやすい。それは心も一緒である。周りがこう言えば、心が揺らぎ、煽れば、熱くなり怒る。では、本当の安心とはなにか。拠り所とは何か。私もこれらを考えました。お金は持っていれば安心だが、すぐなくなってしまうことがある。友達もいくら仲がよくても疎遠になってしまうことがある。本当の安心とはいえない。

 ある御門徒さんがおっしゃいました。「お寺で聞いたお話を、帰って家族に話している。そこから生まれる思い出話などで家族和になって、語り合い楽しませてもらってます。この姿、光景がのこるといいな」と。だから、この方は、日頃、法話やお寺の行事に足を運んでるのだなと感じました。お寺に足を運び、本当の安心、「真宗」と向き合い、「南無阿弥陀仏」の教えを、心の拠り所として学んでいるのだなと感じ、伝わりました。

2021/09/21

 この度、浄土寺のホームページを作ることになりました。

「ひとこと法話」に関しては、浄土寺若院顕滉が更新させていただきます。つたない言葉ですが、日常から感じる思いや疑問。勉強を通してなどといったことを述べていきたいと思います。

どうして、ホームページを作るに至ったか。よく、友達からお寺ってどんなところなの?お坊さんってなにしているの?と質問されます。やはり、一般の方からしたら、「お寺」になじみがないのではないか。寺離れしているこの時代、若い世代が「お寺」に関してなにも知らないという現状は事実であり、悲しく思うところでもあります。なのでこのホームページを通して、「お寺」について知ってほしい。そういった思いでホームページを作らせていただきました。今後ともよろしくも願いします。